教えを聞き取る | 真宗大谷派の世界

教えを聞き取る | 真宗大谷派の住職の法話

仏教という教えは、最初から仏教という教えがあったのではなく、釈尊という方が一人の人間として生まれ、その人間として生きる苦悩や悲しみの中で見出されたのが教えというものでないでしょうか。その釈尊によって見出された教えが、私たち一人ひとりが抱えている苦悩を包み込んでいる。それが教えというものだと私は思っています。また、その教えを聞くということは、自分の人生、自分が人間に生まれてきたということに本当に頷いていくことです。その道を教えてくれるのが、教えというものではないかと思います。その教えを聞くということはただ聞くのではなくて、聞き取るということが非常に大切な事柄だと思います。

毎月お参りに行っているお家のおばあちゃんが亡くなられて、そして後に残ったお母さんがこんなことを言われておりました。亡くなったおばあちゃんが内報恩講を迎えるにあたって、お内仏の仏具をひとつひとつ丁寧に下ろされて、そしてその仏具のおみがきをする時、そのおばあちゃんが嫁いできた私に常々こういうことを語りかけておられたそうです。
「お前な、仏具を磨くというのはなあ、ただ磨けばええのと違うんやぞ。自分を磨くということやぞ」とこういうことを繰り返し、繰り返し仏具を磨く時に私に語りかけてくださいました」とこういうことを話して下さいました。
そのおばあちゃんが、そのお家へ嫁いできてから何十年とその報恩講に出会うてきた。しかし、ただ仏具を磨くといって、それで済むのではない。自分を磨いていくことが大事なんだと。その苦労をまたその家に嫁いできたお母さんがそのおばあちゃんの言葉を聞き取った、ここが大切な事柄なのではないでしょうか。
ただ聞くのではなくて、亡き方の言葉を聞き取って、私たち一人ひとりの自分の有り様をもう一度確かめてみる。それが実は報恩講ということと、私の出会いということになっていくのではないかと思います。その聞くということと、聞き取るということを少し中心にしながら、時間の許す中で、ご一緒に聴聞したく思っております。

本願の出処

真宗の大切な言葉の中に「本願」という言葉遣いがあります。「弥陀の本願」、「如来の本願」、「本願念仏」というふうに本願という言葉が非常に大切な言葉として扱われています。また皆さんも何度も耳にしている言葉ではないかと思います。
具体的には、生活の中で私たちは、どこでその本願ということを確かめているかと申しますと、一つはお内仏のご本尊。あるいは浄光寺さんの本堂のご本尊。そのご本尊である阿弥陀さまの後ろ側には御光があります。その数が四十八本。
生活の中で私たちは、本願ということを、我が家のお内仏のご本尊を通してこの目で確認をしたり、あるいは浄光寺さんの本堂に来て、その本願というものの姿を私たちは目にすることができます。
またその本願ということが、『仏説無量寿経』の中で説かれているということも聞き及んでいます。そして、その数が一願から四十八願までということも聞き及んでいます。さらに私たちはその本願の内容を確認しているわけですけれども、いつの間にか大切なことを忘れているということがあります。
それはその本願がなぜ起こってきたのかということです。その本願を起こさなければならなかったのは一体なぜでしょうか。本願がなぜ起こらなければならなかったのか。
私たちは一願から四十八願というかたちは知っているんです。ところが、その本願がなぜ起こさなければならなかったかということをついつい忘れているんでないかなあと最近思っています。改めて、その本願がなぜ起こってきたのか訪ねてまいりたいと思います。

私たちは、報恩講の折でも、平生の生活の中でも『正信偈』のお勤めをいたします。その正信偈の冒頭のところに「帰命無量寿如来、南無不可思議光、法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所、覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪、建立無上殊勝願、超発稀有大弘誓」。まず正信偈の冒頭のところに今申しました言葉が文字が並んでおります。実は、ここにその本願が説かれてくる大きな理由が書き述べられています。「法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所」。一人の国王が世自在王仏という仏さまに出会われた。その世自在王仏のお話を聞いた時、その王様が非常に感銘を受けて感動された。その感動と感銘の中で、私もあなたのような尊い仏になっていきたいと願われた。そこでその国王が何をされたかといいますと、国王という地位を棄て、国を棄て、一人の沙門となって名を法蔵と号すとこういうふうにいわれます。

場所

最初から法蔵という方がおられたのではなくて、一人の国王がおられた。その国王が世自在王仏と出会われて、その時に「在世自在王仏所」、「在世」在りし時に。どこに在りし時かといったら「所」です。つまり場所です。実はこの「場」ということが、実は非常に大切なのです。
私たちもそれぞれがこの所、場を持って生活をしています。私たちでいいますならば、家庭という所、場があります。お勤めになっている方は、それぞれ勤めている場、所があります。ところが、その場が本当に安心できる、自分がのびのびと穏やかに過ごせる場所かどうかということが一番の問題でないでしょうか。
実は、法蔵と名乗る前には国王で、その国王であったという時は、なかなかこの場が安らぎの場になっていなかった。なぜ国王でありながら安心して穏やかに暮らせないかといいますと、やはり隣接する国からいつ攻められてくるか分からない。あるいは信頼している家臣からいつ裏切られるかも分からない。そして、国を治めているけれども、その治めている人たちが私の政策に対していつ反旗を翻すか分からない。常に不安というものを抱え込んでいたというのが国王の時代です。

それは今日の新聞を見ると、やはり同じようなことが出ておりました。二〇一三年度の公立小中学校、それから養護学校を含めてのいじめの件数ということが新聞でも報道されておりました。二〇一二年よりもいじめの件数は減ったという記事が載っておりました。文部科学省の統計でいいますと、185,860
件。そのうち自分の命というものに危険が及ばされるような重大事件として成り得るものが一八一件。こういうふうに載っておりました。
私たちは、学校という場の中に身を置き、そしてそこで人と人の係り、つながりの中で大切なことを学び成長していく、そういう場が学校という場所です。ところが現在の学校という場所は、人と人の係わりを大事にし、育て育んでいくという場ではなくなってしまった。比較し競争することによって、いつの間にかいじめというものがどんどん、どんどん増えてきた。まさに場所という所が私たちにありながら、人と人との係わりが崩れてきている。そうすると、学校という場が本当に安心で穏やか所に現在はなっていないんだなぁと、そういうことを今日の新聞の報道を見ながら感じておりました。

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